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「世間」は自分に関係のある人達、「社会」は自分とは直接関係のない人達

  • essay

更新日📅 July 22, 2020

記事投稿日📅 July 21, 2020

⏱️2 分で読めます

「世間」と「社会」という二つの言葉が対義語だと書かれているのをみて衝撃をうけた。 きっかけは、鴻上尚史さんの連載する人生相談記事を読んでいた時のこと。

衝撃を受けた理由を考え見るに、どうやら私は「世間」と言う言葉の方を「自分の関係のある人達」として今までとらえていなかったことが原因じゃないかとおもわれる。

いわゆる、「世の中一般」という抽象概念を、「世間」という言葉がいままでカバーしているとおもっていたのだ。おそらくこの解釈は文脈によって完全に間違っているということもできかねるとはおもう。

上記の記述を読み進めると、「世間が江戸時代をピークにちゃんと機能していた時代」と、それがゆるやかに崩壊して今にいたったことなどが書かれている。時代とともに言葉の使われ方も変わってきているのであろう。

おもえば、日本人で高齢者ほど、「社会」よりも「世間」という言葉を会話で使う率が高いように思える。「世間の目を気にする」という言葉は、高齢者や地方のような「世間制度」の名残があるところほどよく使われる。「そんなことをしたら笑われる」という感覚は、「自分に関係ある人」が物理的に近い距離にいて、自分のしたことの評価がすぐ周りに伝わり、影響がでる状態に身を浸していてこそ機能しやすい感覚だからだろう。

コロナによるパンデミックのさなか、ますますいろいろなものがリモートになっていき自分にとっての「世間」が指し示すものが曖昧になってきた。家族以外とのコミュニケーションはすべてオンラインな状態と言うのは、今まで自分との関係性の大小を語るうえで大きな指標だった「実際に一緒にいる頻度」をすべて等しくゼロにしている。

そして自分の評価として、「世間」が認知できるものはオンライン上にある情報だけになっている。その情報って、自分と今まで物理的に距離が近かった人達だけがアクセスできるのか、はたまた不特定多数の人がアクセスできるのか。むしろ匿名のつぶやきなんかは近しい人には公開してなかったりする。「世間の目を気にするな」だとか「世間に迷惑をかけるな」という高齢者が若者によく放つ言葉の意味が、どれだけ「今」の世界に即したアドバイスになっているかどうかは疑問で、結局かなりの割合で言葉の受け取り手が吟味咀嚼または聞き流しをしないといけないほどに時代の変化は速いなと思い黄昏てしまう今日この頃。

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