僕らは何歳まで「楽しく」生きる事ができるのだろうか? - 有機的に変化する「楽しさ」と「生きる」の定義
更新日📅 July 28, 2020
•記事投稿日📅 October 27, 2017
•⏱️7 分で読めます
久々にまとまりのない雑記。オチとかはない。
時間の過ぎ去る速度が加速する事実にいちいち思いをはせない自分がいることに気が付く。
先日夜、バドミントンをした帰りに6歳年下のフィリピン人の友人が車の中で、
"Hey, It's almost November now... I feel like this year has been passing too fast.(ねえ、もう11月になっちゃうけど、今年過ぎるの早すぎる気がする。)"
と漏らした。
おもえば自分が大学生のときや20代半ば頃は、そういった「時間が過ぎてしまう事」に対して敏感で、「自分は死ぬまでのおよそ4分の1の時間を過ごしてきたのか」だとか、「これぐらい楽しい事が死ぬまでにあと何回あるだろうか?」のようなことを時折考えていた。
「できるならば時間は止まってほしい」
「若いまま、今の不自由なく何でもできる体と環境のままで、もっと人生を楽しみたい」
そんな欲求が強かったように思う。
当時の自分にとっては、「老いていく」という事がどういう事なのかはただ漠然と「快適に自分の好きなことができる状態ではない状態になっていく」という事だった。
歳をとれば様々なところで制約ができ、自由がきかなくなってくる。
体も、精神も、自分を取り囲む環境も。
それが大人になっていくことなのだろうと、ただなんとなく20歳の頃は思っていた。
フィリピン人の彼が車のなかで呟いた一言は、自分の中で、時間が早く過ぎる事を残念に思っていた数年前の自分を思い出させた。
そしてそれと同時に、時間の流れるスピードが加速していく事そのものを受け入れてきている今の自分がいることを認識させたのだった。
文明の加速度的な発達がもたらす「死」の定義の変化
「生物は種の保存の為に適応し続ける」という事を最初に学んだのは高校生ぐらいの頃だったか。
当時は知識としてだけあった「種の保存の法則」も、20代前半で経験したあらゆる事象を通して、今では「別の生き物と共存する事を理解する」事のベースとして、自分の考えや分析を深める時の大きな柱となっている。
縄文時代の人々の平均寿命は15歳だったらしい。
そして100年前の人類の平均寿命は31歳。
今現在の平均寿命は80歳を超えている。
このたった100年の間に加速度的に発達している文明レベルは、何万年とかけて人類が築き上げてきた「死」の概念をコロっと次の数十年、数百年程度で変えてしまうかもしれない。
「どんなに頑張っても人は120歳までしか生きられない」という説があれば、「人類の寿命が延びる速度自体が上がる一方で、ここ20年の間に平均寿命が40年のび、伸びた時間でさらに文明レベルが上がり寿命は伸び続ける為、現在生きている人は寿命を気にしなくてよい世代に既に突入している」という説を唱える人もいる。
現在、CRISPR/Cas9での遺伝子改変による試みが非常に盛んにおこなわれていて、生物の設計図にあたるDNAの編集による治療プログラムが市場に進出し始めてきている。
DNAのコピーペーストが容易にできるようになったことで、健康時の自分のDNAを保持し、古くなったパーツを健康時のものと取り換えるといった事も現実的に可能になってきている。
誰にでも訪れるはずの死の定義が曖昧になってきているのではないか?
古くなったパーツの交換が永久に交換可能ならば、自分はいつまで自分であり続けるのだろうか?
仮に肉体的な健康が永遠に保証される世界になった時、僕らにとって「時間が過ぎる」事は今と同じ価値を持つのだろうか?
従来までの「歳を重ねる」行為は、数十年後にくるはずの「終わりに近づく」行為と等しかった。
どんなに足掻いても着実に近づく「死」との時間的な距離を自由に調節する事が可能になった時、死は「訪れるもの」から完全に「選ぶ」ものになるのではないだろうか?
「種の保存」という生物アルゴリズムの根本は瞬間的な多様性の爆発によって新たに発生する「新種」を定義し続けられない
すなわち「種」の定義は、現在のようにDNAやれ物理的な存在の構造で判断されるものではなくなり、それを取り囲む環境に紐づき、それを取り囲む共同体として定義する他なくなる。
種の保存の為に、死までの数十年というタイムリミット内でより環境に適応した優性遺伝子を残す。僕らの本能はそのために、1人1人が独自の環境に対応し、優性遺伝子を残そうと生きるようにプログラムされている。
環境とのバランスで有機的に「優性」の定義が変わるこの世界では、もはや新たに人類の数を増やす行為自体が常に正義であるといえない時代に突入している。
「自殺」という行為さえ、人間という種トータルでみたときの種の存続においてプラスに働く行為であるから、時に人は自殺をする。
僕らの感情や欲求、意識でさえ、つまるところのこの根源的な「種の保存」に対して帰因している。
「種として環境適応し存在し続ける」為の方法が従来までは「現状存在する異なる遺伝子体で子供をつくり、多様性とよりup to dateな環境適応力を持った個体を新たに発現させる」という手段しかなかった。
これにもし、「現状の存在する遺伝子そのものを改変し適応していく」という手段がプラスされるとどうなるのか?
肉体的に永遠に存在し続けることが許されるようになった生命体は、周囲の大きな有機的環境(星、宇宙)にもいずれ対応し分散し、多様性にはより幅が生まれ、今僕らが定義している「人間」とは遠くかけ離れた存在がいずれ生まれることになる。
100万年後、今の僕らから派生した長寿の存在は「秒」という時間単位を感知できない
歳を重ねて記憶が蓄積するにつれて、同じ「一日」を感じる時間が短くなっていくのは、自明の理である。
参考: This visualization shows why time seems to pass faster as you get older
時間という概念を発明し、「秒」「日」「年」などの時間単位を人間が発明したのは、それが便利で必要なものだったからである。
死というタイムリミットから解放された存在は、気の遠くなる長い記憶の蓄積というプロセスを経て、今の人類が感じている世界よりも早送りの世界で存在し続けることになるのかもしれない。
寿命からの解放が与える意識の適応は、過去の人間性の定義に価値を与える
「種の保存の為の適応」とは、僕らが今「精神」と呼んでいるものにも深く作用する。
適応を繰り返し続けた10万年後の自分は今の自分とはかけ離れた存在であるはずで、当然その存在にとってのものの感じ方や、人生の「楽しさ」の定義も違っているはずである。
僕がフィリピン人の男の子の憂いを聞いて感じた、僕自身の年を取る事への受け止め方は、今僕が考える「現状においての人間的で精神的な適応」だ。
彼が今思う「楽しさ」が将来の彼にとっての「楽しさ」とイコールでない事を知っている僕は、時間が早く過ぎる事を憂う必要はないのではないかと思う。
そしてそれと同時に、今この時代において、この過ぎ去る時間を惜しむ「憂い」の感覚を持っていることが、これから永久に続くかもしれない人類、またそこから派生する未来の存在の歴史の中において今を振り返ったときに、非常に貴重なものになるのではないかとも思うのである。
1万年後に、僕の体から派生した存在にとっての「生きる楽しみ」なんて、今の僕には想像もつかない(そんな概念があるかどうかも含めて)けれど、もしかしたら、
「僕は昔、バドミントンの帰り道にフィリピン人の男の子から時間の憂いを嘆かれた事がある」と、笑いながら話す「自分」になっているのかもしれない。
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