25歳の時のワーキングホリデーが僕に何をもたらしたのか、バンクーバー在住6年目

25歳の時のワーキングホリデーが僕に何をもたらしたのか、バンクーバー在住6年目
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1年だけの予定のはずだったワーキングホリデーが、英語を勉強するのが目的だったはずのワーキングホリデーが、私の場合は人生を大きく変える引き金となった。まさかミソジになってまでここに住むことになろうとは、当時の自分からしてみれば想像もできなかったであろう。

これからここで書き綴る事が、本当のところワーキングホリデーによって得たものなのか、歳を重ねれば自然とわかってくる類のことなのかどうかは正直わからない。主観で、海外にいったことで伸びた、または影響をうけた能力を綴っていく。

1年ちゃんと勉強すれば英語ペラペラになる、というよりは「ペラペラ」がなんたるかがわかるようになる

自分は周りのワーホリ日本人と比べてもかなりストイックに英語一辺倒な生活を1年間していた方だが、1年ガッツリやって感じたのは「まだまだ足りてない!」という不完全燃焼感だった。

実際ペラペラになっているかと尋ねられれば、当時から見て1年前の自分に1年後の自分の英語をきかせたら確実に「スゲー!ペラペラやー!」となるぐらいにめちゃくちゃ英語上達していたとはおもうが、結局それでもまだまだ足りないのである。英語が伸びてこないと見えない景色は想像以上に広かった。そして楽しくもあった。

もともとは、オンラインゲームのボイスチャットでリアルタイム英会話で"Oh, shit!"っととかいいながら、作戦会議とかしながら対戦ゲームしたい、というのが目的で英語を勉強していた。

1年がっつりやってれば、自分の説明したいことで説明できないことなんて大抵なくなってくる。というかその程度のレベルであれば数か月で達することができる。でもその時点だと不格好なんだよね。たぶん何も喋れない学習前なら「不格好でもいいじゃん」となるんだろうけれど、いざできるようになってくると不格好なのはだめだと思うようになってくる。自分が思ってた「ペラペラ」ってそういうことじゃないんだよねってなってくるわけ。欲は後から湧いてくる。

日本語のコミュニケーションでもそうだけれど、会話の緩急や、イントネーション、言葉のチョイス、ありとあらゆる要素は密接に関わっていて、「言いたいことが言える」レベルってのは、自分が当時到達したいとおもっていた長い道のりのスタート地点程度でしかないことにどっかしらで気が付く。

別記事だが下記で、初心者向けの英会話上達法についてあーだこーだかいてます。

日本人、台湾人、中国人、韓国人が見ただけけでだいたいわかるようになる

そもそも海外でるまでは、そーいう括りを意識することすらなかった。台湾人だからどうなのとか、中国人だからどうなのとか、そーいうの全部、「日本人じゃないアジア人」でしかなかった。

その意識がもう少し具体的になる。下記で述べる「偏見」も、多かれ少なかれ誰にでも自然に形成されるものだとおもう。

違いが判るというのは、自分のなかで「韓国人」などを定義づけるイメージが蓄積がおこなわれたという事。ファッションだったりメイクアップだったり、態度、ふるいまいだったりね。

他国の人間に対しての偏見が強まる

「偏見」がないってのはさ、なんにも知らないだけなんじゃないかなと。何かを知ってしまったら、もうそれは意識せずにはいられない。

海外でるまえはさ、せいぜいネットでの中国人や韓国人にたいする辛辣なコメントやニュース記事とかみて、「へーそうなのねー」とか思う程度だった。「マスコミ情報やネットのコメントなんか全然あてにならんし、たいして知りもしない事に対してネガティブコメントいうやつになりたくない」ぐらいおもってた。

実際海外でると、最初は「人それぞれだよな~、中国人でもマナーがいい人もいればそうでないひともいるなあ」とかおもうわけ。そしてその数がたまってくるとだんだん見えてくる「傾向」がある。

いつも優しくて仲のいい中国人の友人(34歳既婚子持ち、いつもニコニコぽっちゃり)が、混んでるレストランでグループ用にテーブルを確保するときに、遠距離から自分の私物をそのテーブルめがけて投げ置き、「テーブルゲットだぜ!(キラッ」っとなった時は、「いつも温厚な彼でさえ、実は中国の競争社会で育ってきた背景があるんだよなぁ」とを感じれずにはいられなかった。

フランス語、スペイン語、中国語、その他かどうかの判別ができるようになる

街中、電車の中で、あらゆる言語が飛び交う日常。何言っているかはわからないけれど、何語なのかはわかるようになる。

理不尽さに対する耐性がすこしあがる

ここでいう理不尽さとは、会社で上司や先輩に虐げられるときの理不尽さのことではない。風土的な要因や、人の要因だよね。ホームレスや薬中の方々のアグレッシブさといったらほんとにもう。「つつしみ」や「恥」というものが全く持って別の次元で存在しているであろう人間達がおりなす社会では、いろいろサプライズがおきます。

バンクーバーに来る前まで「ストライキ」なんて言葉は歴史だか政治の授業中にしかきかなかったわ。IKEAで家具買ってるときにIKEAがストライキしてて、指定した日にベッド届かないとか、なんかすでに払った送料とは別に、追加でドライバーに再送させるためのお金がかかるとか、意味わからん。電話でクレーム入れても全然だめだったのでお店に直接直訴いったら解決したけど。サービス系は多い。

バスとか交通形もそう。武蔵野線が強風で15分遅延とか目じゃない。20分間隔で1時間に3本走る予定のバスが、散々待たせておいて何食わぬ顔で1時間後に3本同時にやってくるとかしょっちゅう。そしてこっちはドライバーのほうが態度が上。お客さんが"thx"っていってのせてもらっておりてく。理不尽とは違うのかもしれないけれど、結果を推測する時の前提や論理部分がそもそも違う事に気が付いていないと、理不尽に感じることがある。心の準備ができていれば「文化的な違い~」とかですませられるのかもしれない。

あと、理不尽ていうのとは違うかもしれないけれど、違うタイプの自然脅威的なやつね。ベッドバグだとか、違うタイプの花粉だとか、ねずみとか。地震や台風がなくても、場所によってはそれ固有のなんたるかがなにがしかはあるってことよね。

モノゴトの歴史に少し興味がもてるようになる

国の歴史もそうなんだが、自分が訪れるその場所では、過去になにがあったのかに興味がでるようになった。おっさん化してるってことなのだろうか。学生の頃とか、歴史は自分にとってもっともつまらない授業の一つだった。

海外にいるとやっぱり、日本人でない人に日本のことをいろいろきかれる。そういう時に教養がない事を恥ずかしく思うんだよね。日本人としての教養があるかないかって問われる頻度は、日本国内にいるときよりは断然多いと思うので、それが影響しているきもするな。

アウトドアが好きになる、自然がより好きになる

東京と比べたら、大抵どこいってもエンターテイメント不足。バンクーバーはカラオケとかボーリングや満喫も値段高いし、ショッピングは品ぞろえすくねーしっていうtかそもそも店小さいし人少ないし18時で閉まるし。

日本の若者がよくバンクーバーにきて「退屈退屈」と漏らすのを耳にタコができるほど聞いてきた。そりゃあんだけ与えられてなんでもある環境で育てば、自分で娯楽やれ楽しみをさがす力なくたっていくらでも暇潰せるもんなぁと良く思う。

街中ランニングしたり、山にハイキングいったり、こっちじゃそんなんいちいち本腰入れて新しいシューズ用意して、みたいな準備に時間かけて、週末になったら「よしやるぞ」ってなってやってるやついねーぞと。平日仕事終わりにそのまま山に直行。そもそもスーツ姿自体ほとんどみないなこの街。ランニング時の恰好と普段着の境目とかない。いっつもダサいから見た目関係ない。そのままアウトドアいけるよね。ちょっと極端に盛ってみたけど、要はそういう事。

自然と触れ合おうと思えばフットワーク軽くすぐそこに行ける環境があるというのは、インドアでアマゾン依存症だった自分を大きく変えた。ちなみにカナダのバンクーバーはアマゾンによる生食品の配達は法律で禁止されている。不便ゆえに適応したのだ。

為替に少し敏感になる

通貨ね。日本円もドルも両方使うからね。バンクーバー住んでると、アメリカ(特にシアトルらへん)はしょっちゅういくので、3種類通貨もつことになる。それぞれ口座がある。

一時帰国した時に町ですれ違う外国人に対していろいろ敏感になる

日本にいる外国人を見た時に、服装なり雰囲気でなんとなく、日本にどれだけ慣れているかがわかるようになる。日本語喋れそうなやつかどうかもなんとなくわかる。少なくとも観光客かそうでないかはわかる。

ワーホリ終わった直後だったころにとくにあるあるだったが、日本で外国人に「俺は英語喋れる日本人だよ」アピールをしたくなる時がある。日本にいる外国人ってだけでなんか、日本好きそうな外国人にみえるので、優しくしたくなっちゃう、困ってたら助けたくなっちゃう。観光客だったら、高いフライトチケット買って日本を旅行先に選んでくれてありがとうねっていう気持ちになっちゃう。

倹約レベルがあがる

自分の場合、最初の両替時に換金したカナダドルだけですべてやっていくつもりで、日本の貯金を崩すことはしないというポリシーを貫いて生活をしてきた。結局5年半以上たったいまでも、日本円→カナダドルの換金はあの時の一回だけである。

ようは、銀行の残高がリセットされた状態でのニューライフなわけである。生活レベルもすべて、日本にある貯蓄の事は度外視し、イチから考えて生活するのである。税金こっちのがたかいし、レストランではチップはらうし、っていうかそもそも物価もこっちの方が高いし、いろいろ節約しないとワーホリはやってらんないのよね、いろいろ。

生活レベルって一度上げたら下げるの大変てよくいうけれど、海外生活を日本の貯金トランスファーせずにはじめるっていうのは、これを達成できる数少ない一つの方法かもしれない。

フットワークが軽くなる。「住処をつくる」という意識の形成

ゲームのマインクラフトみたいな感じ。必要なものを、プライオリティ順に整理して形成していくことに楽しみすら覚える。キャンプとかもそうなのかな。ミニマリストとか、断捨離といったものにも少しだけ興味をもつ。ただもしかしたらこれは年齢のせいかもしれないな。

バンクーバーに住んで最初の1年で自分は4回引っ越しをした。他のワーホリの人をみてても複数回引っ越しをする人はとても多い。日本て敷金礼金だのあるし、拠点をうつすことにかかるコストが半端ない。拠点を移した回数だけ、そこからスタートするときに何を準備したらいいのか、いろいろと考えて行動するというプロセスが生まれる。短期間の間にこういった経験を複数回積むことで、「いるものいらないもの」に対する意識も研ぎ澄まされる気がする。

いろいろクリーンナップすることを覚えた気がする。たいして使いもしてないのに払い続けてる何かのサービスの月謝をキャンセルとか、生活スタイルがかわってなかったら惰性で払い続けてたかもしれない。

日本の良さと悪さがわかったような気になる

これは書くとキリがない。いいところも悪いところも色々見えてくる。思うのは、人間は適応する生き物で、住めば都だし、それとと同時に隣の芝は青く見えるという事。自分にはそれを選ぶ自由があって、それはとても幸せなことなんだと日々感じている。日本で社畜やってたときは、鎖を断ち切るのにだいぶエネルギーつかったよなあと、今でも思う。生まれた国が日本で、育った国が日本でつくづくよかったという気持ちはたぶんこの先も褪せないと思う。

あと、海外で出会う日本人は、日本にいたころに出会う日本人とかけ離れたタイプの人が多い。自分は、北は北海道南は沖縄から様々な地域出身の学生が上京して一人暮らしをしながら通うような大学に通っていた。社会人になってからも周りには多数地方出身者がいたが、東京で出会うような日本人とは全くタイプの違う日本人をよく見る気がする。

異常な人が持つ異常さを知覚する感度があがる

良い意味でぶっとんでるというのもあるが、残念ながら悪い意味でぶっ飛んでる人間のほうが強く印象にのこっている。多分そっちの数をみたほうが統計的に上。特定箇所に出没するジャンキーやホームレスの方々とかもうね、クレイジー。ヘイスティングとかのことです。人間の形をしているけれど、行動が読めなさ過ぎて恐怖を感じる事がある。なんだろう、異常者の行動がとてもアグレッシブで、目に移りやすい。アピール激しんだよね、こっちでみる異常者は。すれ違う人、視界に入る人をどんどん積極的に巻き込んでいこうとする。日本で使える「放置」「無視」がきかない。

友人から聞いた話で本当かどうかはわからないけれど、先天的な障害をもっていたり、薬物障害だったりとかとか、とは別に、または複合的に、極端なミネラル不足で後天的に脳の一部機能が停止してしまった人達というのがいるらしい。もともとは薬のせいだったり、貧困によるかたよった食事だったりだとかが原因だけれど、それが慢性化することで特定のミネラルが不足し、古くなったゴムが弾力を失って。ブチッと切れたままもう戻らない、というような、なにかがキレてしまった存在がそういう異常者の中には多いらしい。

他人、他生物をより認められるようになる

寛容になる。

加齢とともに学んだ事でもある。日本にいてもこのあたりの理解は進んだだろう。持ちつ持たれつだし、仕方ない事、わからないこといろいろあるよなぁっていう、妥協とあきらめの気持ちは年々強くなってきている気がする。なんというか、イイ歳こいた30過ぎのおっさんでも、子供用にはしゃいだり喋るのを、よく見れるようになった気がするんだよね、日本人だろうがなにじんだろうが。そしてそれを見て、「カワイイなあ」とか「そっか、それで幸せになれるんだな」だとか妙に納得してしまう。年齢だとか、国籍だとか、人種だとか、宗教だとか、職種だとかのフィルターを無意識のうちにつくって、無意識のうちにいろいろな「期待」をしてきてたなぁ今まで、って思う事は25すぎてから多くなった気がする。

職場の愚痴とか不満とか、人間関係の不満とか、気が付いたら全くなくなってた。20代の頃の自分の抱えていたストレスなんて大半がそういうものだったきがするんだけれど、これいつからなくなったんだろうか。これはたぶんとても幸せなことだと思う。

とりあえず思いついたものをあげてみた。ワーホリとは関係ないが、自分は日本にいる時よりはるかに多くのプライベートの時間がもてている。この余暇を費やして幾つかスキルセットを増やしたり、趣味のレベルを高めたりすることができるので、時間対生産性を考えると、学びの多い現状には今とても満足している。

ただし、国外に住むことがイコール自分の為の経験として直接的に寄与されるのは、結局最初の数か月であろう。この期間内で能動的に行動する自分になり得なければ、場所がどこであろうが成長はストップする。「経験」という響きの良い自己満足で海外生活は幕を閉じるであろう。国外在住であろうが国内在住であろうがやる人はやるし、やらない人の時間は止まったままなんだよね。

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